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変遷

Title:ヘンセン


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 古くは縄文時代から人々の営みがあり、日本最大級の大鏡が出土した茶臼山古墳など多くの遺跡や史跡が残され、海と深いかかわりを持ちながら多彩で豊かな歴史をつむいできました。
 また、大畠瀬戸は、日本三大潮流として知られ、万葉集にも登場しています。
 中世に入ると瀬戸内の良港であった柳井津は、海上交通の要衝として重要視され、大内氏の時代には大内水軍の根拠地として、また対明貿易の基地として位置づけられていました。江戸時代には、瀬戸内屈指の商都として発展し繁華を誇っていました。
 幕末・維新の時代になると、この地域から、優れた詩人でもあった僧月性や秋良敦之助、白井小助などの多くの志士が輩出し回天の偉業をなしています。
 その後、明治期から戦後を通じても商業・卸売業や農漁業などの産業を中心に発展を続けてきました。
 昭和30年代に金属・機械器具製造業などの都市型工業が定着し、豊かな自然と恵まれた気候・風土のもとで、産業と都市機能の充実を図りながら発展を遂げてきました。

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●古代・中世時代●
 柳井市域の南に突出する室津半島の黒島浜・阿月・与浦など、海浜には縄文遺跡があり、弥生時代の遺跡は、伊保庄・余田をはじめ市内各地に分布する。
 5世紀前後には、柳井市向山に周防国造の墳墓と目されている茶臼山古墳(前方後円墳で国指定史跡)が現われる。
 養老5年(721年)に熊毛郡を割いて、新たに玖珂郡を置き、柳井は伊保庄を除いて玖珂郡に属することになった。
 新庄の大倉地区には、奈良時代から大寺院が営まれていたと思われる濡田廃寺跡があって古式瓦が出土する。
 JR山陽本線が東西方向に通る平野部は、かつては海であり、古柳井水道とよばれており、その周辺市域には、すでに早くから中央政権とのつながりがある政治的社会が成立していた。
 平安時代になると、各地に中央貴族や寺社の荘園が発達しており、これを庄と称えている。楊井庄は後白河法皇が営まれた蓮華王院(三十三間堂)領の荘園で、のちに開発された新庄に対して楊井本庄とも称した。荘園になった時期は明らかでないが、古文書における楊井庄の初見は貞永元年(1232年)「東大寺文書」である。新庄は楊井本庄に隣接する新しく荘園になったもので、その起源は不明だが、14〜15世紀頃の古文書に 「防州楊井新庄・・・・・・・」 とある。伊保庄は堀河天皇の寛治年間(1090年代)京都上賀茂神社領の荘園であったが、荘園になった年代は不明である。
 源平動乱の時代を迎えて、源義経率いる源氏が平家を文治元年(1185年)に長門国壇の浦(現在の下関)において滅亡させた。その直前に、周防国合戦があり、その主戦場が阿月の池の浦付近であったという。
 さきに、平氏が東大寺を炎上させたので、その造営のために周防国が充てられ、重源上人が国司となって、周防国衙(現在の防府)に滞在し、東大寺再建に尽力している。文治2年(1186年)国衙領与田保は東大寺の直轄領となっている。
 やがて大内氏の時代を迎えるが、日積は早くから大内氏の領地となり、その重臣杉氏が代官として居住していた。応仁の乱(1467年)に際して大内政弘は大軍を率いて楊井より上洛。この頃、楊井は大内氏の対明貿易基地として利用され、さらに明応9年(1500年)、大内義興は将軍家足利義稙を山口に迎えるが、その晦日、足利義稙は楊井津に宿泊、越年しており、当時の楊井津が瀬戸内屈指の港湾都市として繁栄していたことがしのばれる。

●江戸時代●
 豊臣秀吉の死後2年目の慶長5年(1600年)に起った関ヶ原の役に、西軍の総将となった毛利輝元は、敗戦の結果、防・長の2か国に削封され、やがて、毛利氏の羽翼吉川氏が慶長6年(1601年)に入国(岩国)して、柳井、余田、新庄、日積、伊陸を含む玖珂郡南部はその領地となって代官の支配をうけた。この頃から楊井は柳井と記述されるようになった。
 伊保庄、阿月、平郡は毛利氏の本藩領であった。
 その後、長い間吉川氏の藩政が続き、明治2年(1869年)の版籍奉還に至った。
 白壁の町といわれる古市筋には早くから商いの市がたち、いまの町並みは元禄の頃から形成されたものである。
 明治維新に際しては、阿月の浦氏学塾の克己堂から多くの志士が輩出して、回天の事業を完成したことが語り継がれている。

●明治時代●
 明治4年7月(1871年)廃藩置県が行なわれ、翌5年2月、柳井は山口県第4大区となり、続いて同11年11月(1878年)郡区町村編成法の実施により、翌年12月大小区制が廃止され玖珂郡区に編入された。
 ついで、同22年(1889年)市制町村制が施行される。同38年1月1日柳井津町、柳井村、古開作村の3町村が合併して、柳井町となった。
 この頃の柳井の問屋商業は県下にその繁栄を一層促進させ、山陽道屈指の商業都市時代であった。
 同27年6月(1894年)日清戦争ぼっ発、同30年(1897年)山陽鉄道が広島から徳山まで開通した。
 明治後期に、県内に鉄道が敷設されるようになってからも、貨物輸送の大部分はなお海運に頼り、その傾向は大正時代から昭和前期までもつづいた。柳井の卸売業の繁栄はこの海運に負うところが大きかった。

●大正時代●
 大正時代になって、財界の変動に巻き込まれ、柳井中枢の経済機関はほとんど潰滅した。加えて、県内の交通網も次第に拡充されて、鉄道をはじめとする交通上の要衝に一般の商業活動はかなり活発化してきたため、柳井最大の顧客地である大島郡が広島、阪神商人による直接取引の様相が出現し、柳井の問屋商業に異状をきたしたことは大きい打撃であった。

●昭和時代●
 山口県は工業県としての性格を強め、県経済は急速に伸展することとなり、これにともなう商業活動もまた新しい勃興期を迎えて、柳井の商業は自力更生を期し、着々その挽回に努める施策をたて、石原方面に通ずる道路が開通するに及んで大水道の町並みができ、新天地は繁華街になっていった。
 柳井町においては、古来2回にわたって付近町村を合併して市制施行の機運があったが、その機が熟せず推移し、昭和28年(1953年)9月に町村合併促進法が制定され、合併の機運が急速に進展した。29年3月(1954年)、隣接5か町村(柳井町、日積村、新庄村、余田村、伊陸村)が合併して人口4万人で市制をしいた。同年5月に大島郡平郡村、31年7月に熊毛郡阿月村、同年9月に同郡伊保庄村がそれぞれ本市に合併し、人口は45,000人となった。
 平成17年(2005年)2月21日、平成の大合併により柳井市と大畠町が合併し、新「柳井市」が誕生。現在に至っている。

Memo    
●メモ:  

資料提供:柳井市、柳井市都市計画課
監修:松岡睦彦

 
〒742-8645 山口県柳井市中央二丁目15-1
TEL0820-22-3731 FAX0820-22-8811
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