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吉川公(吉川のお殿様)

Title:キッカワコウ


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 慶長5年(1600)の関が原の戦いに敗れた中国八カ国の武将 毛利氏は、周防・長門の二カ国に減封され、居城を長門国の萩に築くとともに、領域の東部、玖珂郡の約3万石の地を吉川広家(きっかわひろいえ)に、関門海峡の要地である西部、豊浦郡を毛利秀元に与え、東と西の鎮としました。
 これに伴い、現在の柳井市は、楊井(柳井)、日積、伊賀地(伊陸)、新庄、余田、大畠などが岩国領になり、伊保庄、阿月、平郡島が萩本藩領に分かれました。
 吉川広家の岩国入府は徳川家康の意向であったともいいます。
 広家は、吉川元春の三男で、毛利元就の外孫にあたります。長州藩主(萩本藩)毛利輝元とは従兄弟の関係にあたります。
 吉川家臣団が出雲から岩国へ移ったのは、慶長5年(1600)の11月〜12月にかけてで、最初は岩国南部の由宇に入りました。翌慶長6年(1601)の末には、広家も岩国に入り岩国城下町の設営にあたりました。
 岩国の城下町には、横山、川西、錦見の家中の屋敷割と、錦見の町割があります。吉川のお殿様は、領地各地の町人に城下町への移住を命じました。柳井津の商人達が移住した場所は錦見の町割にある「柳井町」となっています。
 吉川のお殿様と柳井とのエピソードで有名なものに甘露醤油があります。
 天明年間(1780年代)に柳井の醸造家 高田伝兵衛が創製した芳香にして美味なる醤油を、吉川のお殿様に献上したところ「甘露、甘露」と賞賛されました。それが「甘露醤油」の名前の由来となりました。
 柳井は瀬戸内海の良港であり、すでに中世の時代から海上交通の要衝でした。江戸時代、吉川のお殿様は、ここを物資の集積地とし商都柳井は、「岩国領(藩)の御納戸(おなんど)」と呼ばれ、おおいに栄えました。

<岩国領と岩国藩>
 岩国吉川家は、萩本藩からは支藩とはされず家臣の扱いで、吉川家は領主の扱いでした。
 しかし、徳川家からは岩国城の築城を許され、幕府からは大名としての扱いを受け、江戸に藩邸を構え、参勤交代も行う立場でしたが、江戸幕藩体制時には(徳川家存続中には)、藩とは認められず参勤交代も認められませんでした。
 吉川家が藩として正式に認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868)のことでした。

<関が原の戦いと吉川氏>
 関が原の戦いの際、徳川家康の密通により、西軍大将毛利輝元、配下の先鋒役の吉川氏と小早川氏は一歩も動かず、そのため本隊の諸軍が戦法を急に変更せざるを目に追いやられた結果、西軍大勝といわれた戦いが大敗となって、にげかえる結果をまねいた。
 家康は、吉川氏にうち切り行為の褒美として、防長2州を約束した。
 一方、吉川氏は本家断絶は困るので、黒田公に頼んで、毛利氏に防長2州をもらえるようにした。
 そこで毛利氏はせめて3万石の地(防州東部)を吉川氏に与えたが、これは内々のこと、公式的ではないから、吉川氏は藩主扱いは江戸時代を通じてされなかったというわけです。

Memo    
●メモ:  

資料提供:柳井市史
監修:松岡睦彦

 
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