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国木田独歩

Title:クニキダドッポ


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 明治の文豪 国木田独歩は、柳井ゆかりの人物です。
 独歩は、明治4年(1871)千葉県銚子で生まれました。幼名を亀吉、後に哲夫と改め、後年「独歩」の雅号を用いました。
 父は裁判所の書記官であり、中国地方各地で転勤にともない居住をしたことから、独歩の作品には、岩国・山口・柳井などゆかりの地が登場します。
 独歩は、上京後、新聞記者などをし、詩や短編小説を発表、田山花袋らと共に自然主義の時流に乗り文名が世に出ました。
 『武蔵野』・『独歩集』・『欺かざるの記』・『運命』・『置土産』・『帰去来』・『少年の悲哀』・『欺かざるの記』など多くの作品を書き残しましたが、明治41年(1908)、満36歳で病没しました。

<もっと詳しく・・・>

●多感な青春時代を柳井で過ごした独歩の年表●

 明治4年(1871)8月30日(旧暦7月15日)、千葉県銚子で生まれました。幼名を亀吉といいます。
 明治9年(1876)、4歳の時、裁判所の書記官である父が山口裁判所勤務となり、山口へ移住。
 明治10年(1877)、父が広島裁判所勤務となり、広島へ移住。
 明治11年(1878)、父が岩国区裁判所勤務となり、岩国へ移住。
 明治16年(1883)、父が山口地方裁判所勤務となり、再び山口へ移住。
 明治18年(1885)、山口中学校初等科へ入学。
 明治20年(1887)、山口中学校学制改革のため退学。
 明治21年(1888)、東京専門学校(現早稲田大学)英語普通科に入学。
 明治22年(1889)、哲夫と改名。
 明治23年(1890)、父が柳井津区裁判所に転勤。
 明治24年(1891)、学生運動に関係し、東京専門学校を中退。同年5月、当時両親が住んでいた熊毛郡麻郷村(今の田布施町麻郷)の吉見家に帰省。直ちに、兵隊に入るための検査を受けたが不合格となり、同年8月から、しばらく熊毛郡麻里府村(今の田布施町麻里府)の浅海家に仮寓する。同年10月、田布施村に波野英学塾を開く。
 明治25年(1892)2月、両親が柳井津町金屋(今の柳井市金屋)の堀江家の別邸に転居。(独歩はまだ吉見家に住んでいた。)しばらくして、両親が柳井村の神田家の借家へ移る。その後、独歩も神田家へ移る。同年4月、姫田川筋の市山家の邸内の建屋(後に、すぐ上の丘に移築され国木田独歩記念館として保存・公開。)に一家で転居。同年6月、弟収二とともに上京。
 明治26年(1893)10月、大分県佐伯町(今の佐伯市)の鶴谷学館教師として赴任。同年10月、父が定年退官。
 明治27年(1894)3月、父のため柳井で印刷業を計画するため姫田市山家に一時帰省するが、その計画は失敗。同年8月、両親が柳井村宮本の藤坂家(三角餅製造 藤坂屋)の借家に転居。同8月、独歩は佐伯の鶴谷学館を辞職し、両親が住まいしていた藤坂家の借家に帰省する。同年9月、柳井の港から船で上京する。(その後、柳井に再び帰ることはなかった。両親は、同年11月に東京麹町に転居した。)
 その後、国民新聞社に入社。日清戦争の時には、新聞記者として軍艦千代田に乗り込む。「国民之友」や、「家庭雑誌」の編集をしながら執筆活動を続け、明治30年(1897)に処女小説『源叔父』を発表。
 明治34年(1901)、『武蔵野』で世に認められる。
 独歩の作品は、優れた性格描写と民衆の視点に立った社会批判を盛り込んだ作風が特徴で、「自然主義の先駆者」と称されている。
 明治41年(1908)6月23日、36歳の時、結核のため神奈川県茅ヶ崎にて没す。

●独歩の足跡●

 独歩が過ごした市内姫田の市山家の建物は、現在「国木田独歩旧宅」として保存・公開され、多くのファンが訪れています。旧宅には、独歩が愛用した月琴や、国木田独歩の胸像等が展示されています。

 市内金屋の「柳井市町並み資料館」の玄関右側には、独歩が、田布施町麻里布の浅海家に仮寓していた明治24年(1891)、近所の石崎ゆり・みねの二少女に、よく勉強するようにと、「書を読むは多きを 貧るにあらず 唯章句熟読を要す 静思すること久しければ 義理自然に貫通す」と書いた『読書の戒(いましめ)』を刻んだ碑が建てられています。

 市内古市の「しらかべ学遊館」には、独歩のあゆんだ年表など資料展示コーナーがあります。

 「市立柳井図書館」には、若き日の独歩がイギリスの浪漫詩人ワーズワースの影響を受けて、美しい自然描写や人間描写をした不朽の名作をはじめ、彼の作品のほとんどを集めた「独歩文庫」(約150冊)が設けられています。

●柳井を舞台にした独歩の作品●

 独歩は、20歳代前半の多感な青春時代を柳井で過ごし、この地をこよなく愛しました。
 柳井の豊かな美しい自然と、人とのふれあいは、大きな影響を及ぼし、柳井を舞台にした作品を多く発表しています。
 柳井を題材にした作品には、『少年の悲哀』・『置土産』・『帰去来』・『欺かざるの記』などがあります。

『少年の悲哀』
 名作短編小説『少年の悲哀』は、市内姫田の市山家で過ごした時代、近くの光台寺を散歩したときに出会った人物を題材にした作品です。

『置土産』
 「餅もちは円形まるきが普通なみなるわざと三角にひねりて客の目を惹ひかんと企たくみしようなれど実は餡あんをつつむに手数てすうのかからぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名いつしかその近在に広まり・・・」とある『置土産』は、市内宮本の藤坂屋で過ごした時代を題材にした作品です。

『帰去来』
 「柳井津に着いたのは夜の10時頃であったか・・・。田布呂木の峠を越えると・・・。」と書かれた『帰去来』は、田布施で過ごした若き日の独歩自身の悲恋と、ふる里の山河を切々と描いた作品です。

『欺かざるの記』
 『欺かざるの記』は、日本における日記文学の中で高く評価されている作品の一つ。明治26年(1893)2月4日から明治30年(1897)10月15日までの日記がつづられており、柳井に滞在した様子も描かれている。

Memo    
●メモ:   

資料提供:柳井市史・柳井市観光協会・山口県観光連盟
監修:松岡睦彦
H23.08加筆
H24.11.28修正

 
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