■天神さんの歴史■

柳井天満宮について

 元禄十年(一六九七年)現在の地に祀ってあった神明堂を廃止して、両石山普慶寺から遷宮し、菅原道真の像を安置し、新市天神社と称したのが始まりである。
 元禄十年七月二十五日盛大な供養があり、庄屋らが参列し、踊りの披露などもあったとの記録がある。元禄二年貞末宗故が大阪の天満天神に参詣した時、菅原道真公の木像を拾って持ち帰り、元禄十年に安置したと伝えられている。


天神祭りの由来

 
柳井天神社のお祭は居祭りで毎年2月25日であった。諸人太鼓を打ち鳴らし数百人参拝した。踊りもあったというから神楽の奉納のことであろう。
 明治6年大祭日、陰暦2月18日から25日を陽暦4月に変更した。この年から宮市天満宮の花神子祭を参酌して大名行列を取り入れた。大行司、小行司は神せんによって定めた。この大名行列をカナキク中梅(銀細工職、江戸で参勤交代の大名行列の日稼に出ていたので行列の組み立てに詳しかった)、森脇理助(父親が表具師)の3氏が取り入れたという説がある。明治初年カナキクさんの娘さんに赤いハンテンを作って着せ、乳母車のようなものに乗せて天満宮に参詣したのがきっかけということである。当時の記録によると行列当番を2月1日神せんで決めていた。当選するも奉仕に多額の入費を要するため容易に引き受けず、交渉のため夜を徹することがしばしばあったとある。
 明治26年に至り柳井津町議会にて御大祭を柳井町祭とし両行司は18区が交代して奉仕することになった。祭典事務は天神区に委嘱された。大名行列を取り入れて幾多の難問題があったが、ここに解決し絢爛豪華絵巻が1週間繰り広げられる基礎ができた。以後天満宮の諸打合せは町役場で行っている。今もそうだが4月25日は雨がよく降る。大正12年「祭典当番日記」によると4月25日、雨天、午後晴れ、午前中御車牛より問合せにより両行司、御神幸執行について照会したところ、大行司(洲崎区)は延期を申し出、小行司(金屋区)は午後2時半まで晴ればれ決行すると回答があった。その結果小行司は宮入りをし、大行司は宮入をせず総代有志警察署長の調停も功を奏せず翌26日大行司のみにて祭典神幸がされた。
 明治10年御神幸の巡路は新市〜6丁目までで折り返し波止場より三角橋、南浜一巡洲崎、樋ノ上御旅所(大夫神楽休憩、食事)宝来橋より古市、久保、亀岡、土手から本社に還行で、この巡路が57年間続いた。巡路は不変と信じられていた。昭和4年、新市〜6丁目、片野土手、石原、旭町、新天地、土手、樋ノ上、中塚、駅前柳町、御旅所、宝来橋、古市、久保、亀岡、土手、本社還行と変更され、昭和12年に至り魚町区が加えられた。
 昭和5年3月2日18区のほかに石原、新天地、柳町、中塚の4区が奉仕区に新加入した。この間巡行路のこと等で、魚町区、新天地区が加盟脱退決議するなどがあったが、後円満に解決した。
 明治44年中野区大行司本役割控昭和14年行列の記録によると4月18日より24日までの行列は、高張提灯4人、先払い1人、打金棒8人、若党8人、箱提灯4人、仲間2人、鏡持1人、沓持2人、太刀持2人、諸太夫1人、本陣1人の計35人であった。小行司も同様35人である。4月25日本行列は、大行司、高張提灯4人、目印1人、先払い1人、仕丁(箒持、清桶)4人、打金棒10人、金棒持1人、立物奴10人、素袍4人、小若党8人、若党8人、箱提灯4人、本陣1人、諸太夫1人、太刀持2人、沓持2人、長刀1人、槍持1人、仲間2人、笊籠1人、茶弁当1人、計77人で、小行司もほぼ同数である。柳井市史に次のように行列の模様が書いてある。お車に供奉する大行司、小行司は町内各地から毎年順番によって出し大名行列を行う。先頭は先乗り、次に陣笠陣羽織を着た先払い、がんざき、箒、清桶をもった仕丁の後をジャランジャランと金棒で地上をたたきながら進んで行く、ついで奴が大鳥毛、三段たくだ金紋先箱などを持ち、素袍、箱提灯、沓持、御徒士、太刀持ちなどが続き、その後に諸太夫が馬に乗ってくる。さらに行列がしばらくつづき直垂を着た小行司が馬で来る。神体を乗せた御車の前後には神官、清桶、獅子、鉾長刀、御幣などを持った仕丁、最後が大行司であるが、その備えはほぼ小行司と同じである。この行列は前後10丁余りにおよびその後にはさらに花車各種のシャギリなど多彩な行事が繰り広げられる。25日には祭礼見物たちが郡参し、町には出店が立って交通が遮断されるほどの賑わいである。故皿末十九郎さんの話によると夜のお参りで夜間の境内に4基の松明皿を立て明かりをとった。大行司、小行司参殿のさいは特に多量の割木を投じてより明るくし非常に神々しかったと。昭和14年諸種の事情によって新天地区が大行司の奉仕を辞退した。そこで同年3月柳井町議事堂において協議し、天神区が大行司奉仕を引き受けること、その費用は小行司奉仕区柳町区を除く20区が負担することになった。行列の全部を請け負わせることになり、4月4日難波丑太郎氏と若村源一郎氏が入札の結果金5百80円也をもって若村氏請負に決定した。この契約書によると雨天のため延期の際は1日金20円也を支払う。行列の人夫は行動を慎み、いやしくも御神幸の神厳を冒涜するが如き行為をなさざることとある。
 昭和45年天神祭りの御神幸、大名行列は大行司40名、小行司33名、宰領11名、責任総代6名でその他を併せ総勢百十余命で前記10丁余に及んだ行列と比べると相当淋しくなっておる。同年大祭決算書を見ると神事に使われた費用は54万5657円であった。県下三大天神祭の一つである柳井天神の変遷を示している。
 昭和16年の大祭は、当番区大行司西古市、小行司新市二区であったが、支那事変のため、祭典行列は18名で行い、24日の勢揃いは自粛して取止めた。昭和20年終戦の年の祭は、当番区新市六区、久保区、と協議し、警察署長の意向もう聞き時局柄御神幸行列は廃して「居祭」となった。昭和21年、22年も終戦混乱のため「居祭」。昭和23年戦後の社会情勢未だ回復せず大祭をすることは容易ではなかったが、居祭が続くことは不本意なため、御神幸が断行された。ただし大小行司は供奉しなかった。昭和25年4月18日よりの夜参りはすべて廃止となり、25日の御神幸、行列のみとなり一段とお祭が淋しくなってきた。昭和42年7月25日天神祭り反省会にて、昭和43年より天神祭り奉仕区を4区に別ける。1、2、3区が毎年交替で大名行列、御神幸の行事をすることに決定した。第1区(新市六区・新市三区・新市二区・新市中区・新天地・山根・石原)、第2区(土手・亀岡・久保・金屋・中野・愛宕・洲崎・柳町)、第3区(北浜・西大歳・東樋ノ上・西樋ノ上・中塚・古市・箕越)、特別区(天神北・天神南)
 昭和44年から天満宮改築の意見が出、賛成反対ともつれ合う中昭和47年から4年間居祭が続いた。昭和51年4月25日は晴天に恵まれ6年ぶりに住持をしのぶ大名行列があり柳井市周辺より多数の参拝者が押しかけ盛大を極めた。
 その後平成2年まで続いたが継続困難となり中断。
 平成5年商工会議所青年部が中心になり再度復活。名称を「柳井天神春まつり」とし、商工会議所内に柳井天神春まつり実行委員会を組織し毎年4月25日直前の土日に開催している。


柳井天神春まつりについて

 柳井天神社のお祭りは、毎年二月二十五日であったが、明治六年に大祭日を陽暦四月二十五日に変更した。

 その年よりはじまった大名行列は、明治初年中野町の中村梅吉、森脇清兵衛が江戸へ出稼ぎに出た折、江戸で大名行列の勢揃いする時、人夫に雇われて行列に加わり、その後二人が柳井に帰り、たまたま天神祭が行われるに当たり、大名行列になぞらえて女の子に赤い着物を着せて手車に乗せ、金棒や箒、先箱などを持って中野町と土手町地区の数人が天満宮へ行列したのがはじまりとされる。これが次第に大きくなり、明治二十年頃から大名行列らしいものになったと思われる。
 明治二十六年、柳井町祭とし、当屋は町内十八区が交代で奉仕することになり、祭典事務は天神区に委嘱され、五十年近く実施された。第二次大戦後、復活したが、継続は困難となり一時期中断したが、昭和三十年代中頃に柳井青年会議所が中心となり復活した。
 しかし、継続は難しく四十一年に商工会議所を中心に奉賛会、行事部という組織ができ、五十年代になって商店街連合会の支援により、商店街単位の輪番による当屋の引き受けという体制で平成二年まで行ったが、その後当屋制での継続も困難となり中断した。
 その後平成五年に商工会議所青年部が中心となり再度復活。名称を「柳井天神春まつり」とし、商工会議所内に柳井天神春まつり実行委員会を組織し、今日まで継続している。






柳井商工会議所ホームページに関するご意見・ご感想をお寄せ下さい。
742-8645 山口県柳井市中央二丁目15-1 柳井商工会議所
TEL0820-22-3731  FAX0820-22-8811
 E-Mail:info@yanaicci.or.jp
(@は小文字に変換してください)
TOPページにもどる